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Vows世を憂う現役住職、坊さんのつぶやき
2009.10.02 Friday
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2009.10.02 Friday
政権交代
劇的で心配な政権交代 激震のような、民主党の大勝であった。この国の歴史の中で初めての民主的な政権交代と言えるだろう。そのこと自体はとても大切なことである。なぜなら、お釈迦さまも教える如く「人間は罪悪深重」なのだから、そこに「真実」などあるわけがない。濁った人の世に「真実」があるとすれば、それは「真実」を願って変わり続け、動き続ける、その動きの中にしかありえないのだから。その「真理」を政治形態に当てはめると、それは「政権交代」となる。 しかしだからといって、手放しで喜べるかというとそうでもないと思う。05年の「小泉郵政選挙」に続いて、これほど大きく「民意」なるものが動いてしまうことには、大きな心配も感じる。05年は「郵政民営化」、09年は「政権交代」、この一言で民意が動いてしまう。そこに熱しやすく冷め易い「軽さ」を見てしまうのは、私だけではないだろう。「郵政民営化」だけで、世の中がよくなったわけでもないように、「政権交代」はあるべきことではあるが、それだけでは、人は、世の中はよくなるわけではない。ドイツのナチス党、ヒトラーは国民が民主的に選んだ「政権」であったことを思い出す。 あらゆるいのちと水平に出会いたい 「政権」が何を具現化するのかを、じっくりと粘り強く見ていかねばならないし、さらにそこに自分自身のこととして、「世のため人のための願い、夢はあるのか」が問われている。もちろん、その「夢・願い」を具現化する方策が深く論議されねばならない。が同時にその方策が何のためなのかという原点が常に確認され続けなければならないと思う。 この日本の国も、それぞれの人が輝きを放てるような社会になってもらいたいし、 さらに外に対しても、日本の国の利益だけを考えるのではなく、世界中の人 が、あらゆるいのちが喜ぶような活動をする国になってもらいたいのである。 尾崎行雄(咢堂)という人がいた 「日本の憲政の父」と呼ばれる、尾崎行雄(咢堂)という人がいる。幕末の1858生まれで、明治維新を経た1890年の国会開設時に議員となり、二度の世界大戦を通して63年間に渡って代議士を務めた後、1954年に亡くなっている。戦前に東京市長を務め、日米友好の印しとして、桜を米国に贈った人で、それが有名なワシントン市のポトマック河畔の桜である。その時、米国からはハナミズキが贈られたのだが、今は、三重県松阪にあるくたびれた咢堂記念館の庭にひっそりと枯れかかっている。たぶん敵国からの贈り物だということで適当に扱われたのだと思うが、そこに日米の度量の差を感じてしまう。 その尾崎を一番有名にしたのが、彼の「世界連邦構想」である。二度の大戦を経験した彼は、絶対に戦争を起こしてはならないという願いを持って、大戦後「世界連邦」の実現を説いたのである。世界を一つの国家とし、軍隊を警察に替えて、この世界から「戦争」を追放しようという夢・願いであった。 戦争廃絶の願い 世界連邦構想は、日本国憲法9条の「非戦平和」の願いを具現化する構想でもある。事実として、世界に未だに戦争が絶えないことは誠に残念なことであるが、こんな「夢」を説き続けた方が、この国にも居たのである。まさに、大きな風車に挑むドン・キホーテである。ドン・キホーテは老人だけれど、夢は大きく若きビジョンに満ちている。その根っこには強きをくじき弱きを救う騎士道精神という基盤がある。私のような仏教徒で言うなら、阿弥陀佛の本願であり、「浄土建立」の願いである。私は、10年ほど前、この尾崎の夢を学習する私塾・「咢堂塾」に通っていたことがあり、次のような「世界連邦」実現への道筋を皆で話しあったことがある。 「世界連邦を目指して」 −1.北朝鮮の核問題と拉致問題に一定の目処をつける 0.北朝鮮と日本が国交樹立 1.南北朝鮮を統一 2.0〜1と並行して、東アジア各国との間で歴史委員会を創り、歴史認識を共有 3.0〜2と並行して日朝を非核化 4.ASEAN + 日中朝鮮で「東アジア経済共同体」を創る。 5.インド、オーストラリア、NZ、を加える 6.「東アジア共同体(EAC)」を創る。共通貨幣は「アジアン」 6.1〜6と平行して、日本の自衛隊を3分割(国境警備隊、国内外災害救助隊、国連警察隊)し、国連警察隊は、常時指揮権を国連に委ねる 7.国連の国際裁判機能を充実 8.その頃には出来ているであろう、南北アメリカ共同体、イスラム共同体、アフリカ共同体、EAC、ECを共同して、「世界連邦」を樹立。と、このような道筋である。 鳩山新首相の友愛 「鳩山新首相は、理念として「友愛」を唱えておられる。以前、中曽根元首相から「アイスクリームみたいに甘っちょろい」と揶揄されていたが、最近は「クリームがキャンディーになって芯が入った」と自分で切り返しておられる。その「友愛」精神で、遠い将来のことではあるが、「東アジア共同体」を目指すと言われる。「その夢やよし」ではないか。 国立追悼施設 鳩山氏は、「靖国神社」に替わる「国立追悼施設」創りも提唱されている。ご遺族の方々からは残念な思いも聞こえてくるが、今のままの「靖国神社」では、首相や天皇がお参りできないのである。それは単なる「外圧」ではない。政治と宗教の境目をしっかりさせる「近代国家」にとっては必須なことなのだ。「靖国神社」は、私が京都の東本願寺を大事にしているように、縁のある方々が大事に護持されるべきなのだ。 人類普遍の夢 この「国立追悼施設」創りは、鳩山氏の「友愛」理念の具現化のひとつでもあり、「東アジア共同体」実現への第一歩でもある。そしてそれは遠い将来の「世界連邦」につながる「夢」でもある。 100年かかっても不可能かもしれないことかもしれないが、このような人類普遍の夢を抱きつつ、今の具体的な課題にひとつひとつ応えていくような「政権」であってほしいものだ。その姿勢は、他人任せではなく、私たち一人ひとりが心せねばならぬ事でもあろう。 2009.08.16 Sunday
人材ではなく人物
つい最近、友人の経営する零細工場が倒産しました。数十人の社員を抱えて苦しい中頑張っていたのですが、力尽きたようでした。世間の風潮は、景気は回復してきたという感じですが、苦しいところは、これからまだまだだなと思います。このように、町工場は従業員を抱えて最後まで頑張られるのに比べて、お金がないわけではないのに、非正規社員切り、派遣社員切りに走る大会社の所業は見苦しいことでした。まさに「人間」を、いのちを「物」扱いする、「こころ」を失った金儲けロボットの所業です。
さらに、ものの本によると、派遣社員に払う給料は、会社の経理で分類すると、「人件費」ではなく、「費用」だそうです。そうなると、それは「モノ」以下ということです。会社にとって、工場とか機械なら「資産」として大切にされるのですが、「費用」ならそれは「消耗品」ということなのです。 こんなことを考えていると、昔の日本軍で、兵隊さんよりも軍馬や鉄砲の方が大事にされていたことを思い出しました。軍馬を育てるのは大変だし、鉄砲を作るのはお金がかかるけれど、兵隊は赤紙でなんぼでも引っ張ってこれるというやつです。旧日本軍では、兵隊はモノ以下だったわけです。『そうか現代の日本の製造業は昔の軍隊みたいなもんか』と思い至りました。 けれども、そんな『異常』なことでいいんでしょうか。そんなことが『世界標準』なら、そんな『標準』は願い下げです。そろそろその『異常さ』に私たち自身が気づかねばなりません。 人間は材料や労働力だけではないのですから、「人材ではなく人物をはぐくむ」という「当たり前」の事に立ち戻らねばならないときでしょう。 JUGEMテーマ:つぶやき。 2009.06.19 Friday
お葬式を考える-3 [一ヶ寺=二人!?]
「お葬式」に関しては、最近は、残念なことばかりあります。「お葬式をお坊さん一人で勤める」のも、そのひとつです。本来は、住職が導師(調声)を勤め、もう一人のお坊さんが、お供(伴僧)をして、鏧(キン)を打ったり、装束の着替えを手伝ったりするのです。この二人で一組を「一ヶ寺」と呼び、これがお葬式を勤める、いわば「最低単位」なのです。「二ヶ寺」と言えば、導師、脇導師、鏧役僧となるのです。
ところが、最近は何でも簡略化。お葬式も仏事であることが忘れられて「葬式ショー」となり、「坊さん」はその「付属品」化していますから、「付けとくのは一人で十分や」となってしまっています。 またさらにより一層残念なことは、こういう事を言うと、すぐに「お礼の多い少ない」を言っているように受け取られてしまうことがままあることです。これは「本来はそうだ」と言っているのであって、お礼の大小はまた別の問題なのです。大変であれば、お礼は一人分でもそれ以下でもかまわないのです。 [お礼の多い少ない] お寺は僧侶に関わる「お礼」とは「お布施」ですから「布を施す」ことです。現代では「お金」や「物品」になりますが、「布」という古代の大切なものを「仏さまに施す」ことが本来の意味です。ですから「こころざし(志)」「お気持ち」であって、額を決められるものではありません。阿弥陀佛の恩恵、天地の惠みに対する「お礼」です。大切なものを差し出すからこそ「修行」となるのです。 ただし、このことでも私には苦い経験があります。ある時「お葬式のお礼をまけてほしい」と言われたことがあって、それに対して「本来お布施だから、云々」と語りだすと、「お礼の額を下げない強欲坊主だ」と言われたことがありました。そんなことは一言も言っていないのに、人の受け取りとは様々なんだなあと本当に残念だったことがありました。 とこれほど言葉を尽くしても、「それで(金額は)どれくらい」とか「少なくないやろか」と言われてしまいます。「少ないかもと心配なときは、不足かもしれませんが、精一杯させて頂きましたと言って渡してください、それで文句の言えるお寺はないですよ。」と申し上げています。 「額」についてもしっかりとお寺さんにお尋ねになれば、ちゃんとした方であれば、「お布施」の意味や、「だいたい皆さんこれくらいをなさっています」とういことは幅をもってお答え頂けると思います。遠慮しすぎることがいけません。率直にお尋ねいただいたらよいと思います。 [お葬式まで商品に!] こういった残念なことが、最近ますます増えてきています。そこに、何もかもが「商品化」されてしまう誠に情けない時代の問題があります。近頃、新聞や雑誌などで、お葬式やお墓の特集をよく目にするようになってきました。これまで、受験地獄、学生運動、モーレツ社員、エコノミックアニマル、ニューファミリーと戦後日本の時代を創ってきた、団塊の世代が、そろそろこの世の終わりを迎える年代になってこられたことを受けてのマーケティングだろうと思われます。 お葬式やお墓のことが気になりだすのは、これは誰にでも一度あることですから、変なことではありませんが、まことに情けないのは、新聞や雑誌などの記事の関心が、「いくらかかるのか」ばかりになっていることです。世は「商品化」の時代で、多くの方々の関心も「お金」に集約されてしまうことも理解はできますが、そこでは「お葬式は仏事」であることが全く忘れ去られているのです。本末転倒です。 [お葬式は仏事の始まり!] 現代は、「生」のみに「価値」が置かれ、「死」は「マイナス」としてしか捉えられませんから、「死んだら無になる」「死んだらしまいや」「人間死んだらゴミになる」といった「思い」で、「お葬式」といっても「遺体処理という商品」になってしまっているのです。しかし本当にそれでいいのでしょうか。 いろんな方々と関わりあって生きてきた私たちが、この世の終わりという「人生の一大事」をいつか必ず迎えます。本来のお葬式は、そのとき確かに「お別れの、終わりの儀式」でもありますが、同時に「始まりの儀式」でもあるのです。遺された者たちが、その方を自分自身にとっての「諸仏のおひとり」として出会っていく、そういう「仏事の始まり」でもあるのです。 [本来のお葬式 = 公けなこと] 私の友人でこんな感想を語る方がおられます。 「自分は十数年前に父のお葬式を勤めて、お葬式の大切さに気付いた。父は天涯孤独の人生を歩んだ人だったが、そのお葬式に、自分や妹のつながりの方々が多数列席していただいたお陰で、父は孤独ではなかったのだなあと気付かせてもらった。自分自身もいろんなつながりを生きているのだと分かった」 さあどうでしょうか。「他人が義理で参加しただけの形だけのお葬式だ」と言う方もおられるでしょうが、「義理」ってそんなにダメなものでしょうか。たとえ亡くなられた方を直接知らなくとも、自分の友人の親のお葬式なら、参加したい、参加して友人の思いの一端を担いたいと思う事が、捨て去るような義理なんでしょうか。「豊かなつながり」とは思いませんか。 また別の友人の感想は次のようなものです。 「父のお葬式に、自分の知らない方も多くお参りいただいて、父はこんな方とも親しかったのかとか、それらの方々から父のお話しをお聞きして、息子の自分も知らなかった父の一面を知ることができて、父のことを見直し、再発見できた。」 [お葬式は仏事!] 「仏事」といっても具体的には、この2人の感想のようなことなのです。その行事を通して、その人を再発見し、また自分自身の姿を教えてもらう。私の人生の「道しるべ」として多くの先人方と出逢っていく。これが「仏事」です。父や母、祖父や祖母、可愛がってくれた近所のおっちゃん,オバちゃん。そして750年前の親鸞聖人、2500年前のお釈迦様、みな尊い私の人生の「先生」なのです。 もちろん「人」ですから、いろんなことがあるでしょう。「反面教師」であることもあるでしょう。都合のよいことも悪いことも含めて、みな私の「道しるべ」であり、私のいのちの背景なのです。それに気付いていくことが「仏事」です。そしてその「気付き」のお手伝いをさせていただくのが、「ご縁のあるお寺」であり住職、僧侶なのです。 JUGEMテーマ:お知らせ
2009.06.17 Wednesday
お葬式を考える-2 【いざというときに・・・]
[手遅れ]
私はあるお寺の住職をしていますが、ある朝、ある檀家さんから「おばあちゃんが亡くなりまして」という電話がありました。「大変でしたね。それでは枕経(注1)に寄せていただきます」と申し上げると。「もう此処にはいないのです」と言われるのです。「えっどこへ?」と聞くと、なんと遠い所にある葬儀会館です。「どうしたんですか」「いや実は、昔、ひとに勧められて、積み立てをしていたものですから、そこに電話すると、なんやかやありまして母を連れて行ってしまいました」と。 さらに確かめると、部屋がまだ空いていなかったのか、座敷ではなく、霊安室で枕経もできないということでした。その後、ゆっくと檀家さんに尋ねてみますと、「本当は地元の葬儀屋さんに頼んで、近くで葬儀をしたかったのに」と仰っていました。でも今さらご遺体を取り戻すわけにもいきませんし、もう手遅れです。 注1) 枕経(まくらぎょう) 亡くなられた後、お坊さんに枕元で勤めてもらう儀式。本来は、臨終のときに、親しい方々が、その方の周りを囲んで、絶え間の無い「南無阿弥陀佛」を唱えて、臨終来迎(お迎え・この世のいのちの終わりに、阿弥陀佛が観音菩薩、勢至菩薩と共にお迎え来てくださって、大いなるいのちの元、極楽浄土に連れて還ってくださるという教え・信仰)を形として整えたことに由来する。 [残念な出来事] 最近こういった残念なことが多くあります。喪主さんが、そのような形で、そのような会館でお葬式をすることを望んでおられるのなら、もちろんかまわないことですが、喪主さんの望みと違うお葬式になってしまうことが多々あるのです。上の例はまだ珍しいことで、もっと多いのは、病院での出来事です。 病院で息を引き取られますと、看護婦さんが「ご自分で帰られますか。それともお送りしましょうか」と尋ねられるのです。いくら親しい者でも、もう仏様ですからタクシーに乗るわけにもいきません。そこで「それでは、送ってください」と言うと、直ちにその病院とタイアップしている葬儀社が飛んできて、「葬式パック」のベルトコンベアーが動き出します。 「花はどうしましょう」「お寺さんもお付けします」といった調子で物事は進み、喪主は思いがけないことで、気が動転していますから、あれよあれよという間に時間が過ぎて「ハッ」と気づけば、もうお葬式から2,3日経ってしまっているようなことが、ままあるのです。そこで初めて「あ!そや。うちのお寺は瑞興寺さんやった」と気付くような「悲喜劇」も実際に起こっています。 [いつか必ず・・・] 何故こんなことになってしまうのかというと、あまりに私たちが日頃「お葬式」のことなど考えても いないということです。確かにお元気なときに「死」を考えるのは、それこそ「縁起でもない」と敬遠されることが現実でしょうが、でも尋ねてみますと、もう85歳を超えていて、グループホームに入っておられたりするのです。厳しい言い方になりますが、あまりに無意識すぎるのではないでしょうか。 事実は、みな誰でもがいつか必ず迎えるのが「死」なのです。それこそ「究極の平等だ」という見方もあります。貧乏でも金持ちでも、できるできないに関わらず、頭のよしあしに関わらず、容姿のよしあしに関わらず、いつどこの誰にでも平等に一度訪れるものなのです。 [覚悟] 先ずいざという時に備えて、信頼に足るお世話になるお寺、お坊さんを決めておいてほしいのです。次に、どの葬儀屋さん、どの場所で行なうかを決めておいてください。そうしてその事を子でも連れあいさんでも友人でもかまいません。一番信頼できる方に伝えておくのです。だってその時あなたはもう口を開けない可能性が高いからです。でもそれを決めておけば、自分の行く末が分かるのですから、こんな「安心」はありません。「大安心」の中で、人生の最大の一大事を迎えることができるのです。 JUGEMテーマ:つぶやき。
2009.06.10 Wednesday
農業投資ファンド
投資ファンドいうと、現在の「百年に一度の大不況」の元凶となった、サブプライムローンに代表されるように、強欲(グリード)、悪知恵の根源という感じなのですが、最近新聞でステキなファンドを見つけました(朝日新聞09年5月17日朝刊)。 石川県の農業生産法人「ぶった農産」に出資している「農業ファンド」です。業務を行なっているのは、東京の「ミュージックセキュリティーズ」という投資ファンドで、今年から、農業、林業、などの小口融資事業に窓口を広げているのですが、この投資家たちは、単にお金だけではなく、時には「ぶった農産」の農作業にも参加するのです。 私は、何でもお金で換算して、「楽して儲けるのが一番」といった悪しき風潮に流れる現代を救うのは、農林水産業という第一次産業であると思います。その背景は、「楽して儲けるのが一番」という風潮は、戦後いわゆる「高度成長」といわれた、一次産業つぶしの時代に始まり、近年の「グローバリゼイション」と呼ばれる、日本のアメリカ化によって一層加速しているからです。 [日本の戦後のいびつな発展] 日本の就業者人口の構成比を、第1次・第2次・第3次の3つの産業分野別にみると、農林水産業を中心とする第1次産業従事者は、戦後の1955年に55%ですが、その後は、急激に減少し、近年はわずか6%です。これに対し、製造業を中心とする第2次産業従事者は1955年で20%で、その後は着実に増加し、今は30%強が製造業分野に就いています。これらに対して、サービス業や小売業などの第3次産業従事者は、1955年では25%程度ですが、その後は割合が増加し続け、1960年代後半から急激に増加して、現在は60%以上がサービス業や小売業などの第3次産業に携わっています。 これの何がいびつかと言うと簡単な話で、「お金がいくらあっても餓死する」ということです。戦後の混乱を経験した方であれば、覚えておられることですが、その頃はどれほどお金があっても食糧が手に入らなかったのです。なのに戦後の日本は、お金儲けばかりをして、そのお金で遊びまわって、肝心の食糧はその60%を海外から買っているのです。言い替えれば、しんどい食糧作りを外国人に押し付けているわけです。今は幸いなことにまだ買えていますが、売ってくれなくなったらどうしようというのでしょうか。さらに付け加えれば、その食糧の40%を捨てているアホな国でもあります。 [それで本当に楽なのか] 楽をして、それでよくなっているのならまだ許せます。しかし、楽を求めて、苦しんでいるのが今の日本です。なんでも金で考えて人間をいのちをモノ以下に扱い、「自由が全て」とすき放題に振舞って、かえって自分自身が孤独になり寂しくて、世間の物差しに合わなくなったら、自分をはかなんで、自殺が毎年3万人を超える。これがいびつということです。 ひたいに汗して働いてお金を手にする喜びを、回復しなければなりません。そのことこそが、人間をまともに成長させることです。製造業も大切ですが、先ずはいのちを支える農業水産業でしょう。 とこんなことを言っていると、「あなたはしんどい農作業をできるのか」と問われるでしょう。そこで、最初に出てきた「農業投資ファンド」です。直接携われない人たちは「お金で参加する」のです。 お金を悪くばかり言ってきましたが、違うんです要はその使い方なんです。これこそが生きたお金の使い方です。いのちを育む農業を育て、人間を回復させ、そしてお金もその本当の値打ちを回復する、一石三鳥のステキなファンドです。 [そしてどうするの] 先日、どちらかというと、うまくお金を動かして儲ることを説いている、ある高名な経済学者の話を聞く機会があったのですが、その方でさえ「近年は金融から人間の姿が消えている、それが強欲、行き過ぎの原因だ」「金融は本来は人と人との信用のこと。この人ならと信用できるからお金を貸してきたんです。それが今や数字だけの判断となって変なことになってしまいました。」と仰っていました。そうか、お金も金融も犠牲者のひとりかと気付かされました。悪者探しではなく、それぞれが何とかしなければなりません。僕も、マイ箸だったり、薪ストーブを置いたり、境内の梅で梅酒づくりをしたり、お寺のお供えに食品をお願いするなどをしています。ごまめの歯軋りみたいなことですが、それぞれの小さな取り組みが、積み重なって世界を変えるのではないでしょうか。 JUGEMテーマ:農業・アグリビジネス 2009.03.03 Tuesday
家族葬 = お葬式の私有化
[家族葬 = お葬式の私有化]
今日は、私の本職に関わりの深い「お葬式」について考えてみます。 最近「家族葬」が増えています。もちろん高齢者で身寄りもない方などの場合で「仕方がないなあ」と思えるケースもあるのですが、「少し残念だな」という場合も、まま眼にします。 例えばこんなケースを私は経験しました。夫婦二人住まいで、夫は会社を辞めて十年ほどたっており、子ども達は全て所帯を持って遠くに住んでおられる方でした。夫は残る妻に負担を掛けたくないということで、「家族葬にしてくれ」と言い遺して逝かれたのでした。妻はその言葉に従われたのですが、満中陰を勤め終わって言われるには、「こんなことなら普通のお葬式をしておけばよかった」と。「周りに迷惑を掛けたくない」と思って夫はそう言い遺されたのですが、「かえって周りに大きな迷惑をかけたし、自分もしんどかった」ということでした。 私が見たところでも、最初からご近所の方に迷惑でした。私が「枕経(注1)」に寄せてもらったとき、ご近所の方々が、その家を遠巻きに遠慮がちに眺めておられました。それは、お悔やみに行こうと思うのだけれど、お知らせがないのに行けないなという困ったお気持ちだったと思います。そしてお葬式は家族だけで勤められましたが、亡くなられたことは少しづつ回りに伝わっていきます。そうしたら、「以前とてもお世話になった、お線香の一本も上げさせてもらいたい」と、弔問客がひっきりなしに来られたそうなのです。遂に、奥さんは「こんなことなら普通の式にしておけばよかった」と仰っていました。 [自分の思いと事実との差] この出来事から何が見えてくるでしょうか。それは、自分の「思い」と「事実」は違う ということです。この方は「仕事を離れて十年以上もたって、以前の付き合いもない。ひっそりと逝くのが皆の為になる。わざわざ来てくれるような迷惑をかけたくない」と思われたのでしょう。しかし「事実」は全く違っていたということなのです。 [本来のお葬式 = 公けなこと] 元々、お葬式というものは、家族だけで行なうものではないのです。 たとえば「村八分」という言葉が昔からありますが、それは全くの縁切りを意味するのではなく、二分残っているということでもあるのです。それが、火事とお葬式です。火事は当然ですね、「村八分」の家が火事になったからといって放っておけば燃え広がってしまいますから、皆で消し止めたのです。同じように、お葬式も皆で勤めたのです。それが意味することは、お葬式は 身内だけのことではない、極めて「公け(おおやけ)」なことだということなのです。 それはそうでしょう。一人の人間がこの世に誕生して一生を生き切られて、いのち終っていかれる間、どれほど親しい家族や親族であったとしても、亡くなられたその方が、家族や親族の中だけで生きて来られたことなど在り得ないことです。 必ず回りの いろいろな多くの人々とつながりあって生きてこられたはずです。 もちろんそのつながりは都合の良いことばかりではないでしょう。嫌いな方もいたでしょうし、向こうから嫌われているということもあったでしょう。でもそれらも含めての「つながり」ではないでしょうか。お互いに関わり関わられてきたことが事実です。その多くの皆でその方をお送りしようというのが「お葬式」なのです。「村八分でも」の意味はそこにあります。 [お葬式の私有化を考える] 何故こんなことになってきているのかというと、要するに、「公け」なお葬式を「私有化」してしまっているということです。この「私有化」は現代の一番の「病い」であって、土地や金の私有化に留まらず、今や人間や動物や、さらに、「いのち」までも私有化してしまっています。 お葬式もその例外ではないということなのでしょうが、そこをじっくり考えてみてもらいたいのです。 もちろん、本人を知りもしないのに義理だけの方々が多く参詣され、故人をしのぶというよりは、パーティーのような形骸化したお葬式になってしまう場合もあり、それを避けたいために「家族葬」にという声もあります。それはとても理解できますので、その時は「家族葬」と言っておいて、故人と縁の深かった方々にはご案内をすることをお勧めしたいのです。 [本来のお葬式 = お香典] 「家族葬」とまではいかなくとも、「お香典」を辞退するお葬式も増えてきています。施 主さんのお気持ちは『自分たちの力で、お葬式くらい出すことはできる。他人に期待しな くともよい』とか、『今後、お付き合いができないから、今、断っておく』とか、場合によれば『お返しの作業が大変だから、お香典は受けとらない』という方もおられるかもしれませんが、どちらにしても、「善いこと」だと思ってなさっているようです。しかし、これまた、先に述べた、本来のお葬式の公けな在り方からは遠く離れてしまっています。 元々、お香典という伝統、習慣は、本来の「互助(助け合い)」であって、要は「集まるお香典」に見合った「お葬式」を挙げればよいということなのです。付き合いの広かった人は、たくさんの人がそのお葬式に参られ、お香典もたくさん集まるから、それに合った 大きな式を挙げればよいのですし、付き合いの少なかった人は、それなりの規模の式をすればよいだけなのです。派手だからダメとか、小さいからダメとか、どちらが良いとか悪いといったものではありません。その方の人生が表現できるような式であればいいのです。まして費用が高いとか安いとかをうんぬんするのは、全くずれたなのです。「お香典」分の式であればいいのです。 そのように、「公けなその方の一生の最期の大行事として、皆でその方をお送りしましょう」というのが「お香典」なのです。施主の役割はそれを「お預かり」して、「右代表」として「お葬式を執行する」ものなのです。それを「お断り」するのは、皆の気持ちを踏みにじることでもあります。 最近、雑誌や新聞などに、お葬式やお墓を取り上げたものが、多くみられますが、そのほとんどが、読むとがっくりします。仏事の本来の意味を説くようなものはほとんどなく、多くが、「いくら費用がかかるか」「高い安い」といったことばかりなのです。そんな視点ではなく、ぜひ「お香典」の本来の意義を知ってもらいたいものです。 [終わりに] 要は、あまりに私たちが日頃「お葬式」のことなど考えてもいないということでしょう。 しかし、一人の人間のかけがえのない一生の最期の「一大事」が、そんな「一丁上がり」 でよいはずはありません。「私は、こんな式で、この世を去って行きたい」「私は、こんな形で親を送りたい」いろいろあってよいと思います。好きな音楽を流してもよいでしょ う。それは、当然、あなたの今の生きざまを問うことでもありましょう。 2009.02.28 Saturday
共に生きている
残念な経験をしたことがあります。数年前、用事で埼玉県へ行ったときのことです。午後3時頃でしたか、乗っていたJRの電車が、高架線になり急に見晴らしがよくなり“ラッキー”なことに遠くに富士山が臨めたのです。僕は一人でハシャいで近くに座っていた小学生の女の子に「見てみ!富士山が見えるで!!」と声をかけたのです。そうしたら、その子は「何!?このオジサン!?」という感じで黙って僕を見返したのでした。
今思えば、僕の大阪弁にギョッとしたのかもしれません。毎日そこを通っている彼女には富士山なんかどうでもよかったのかもしれません。学校帰りで、その日返されたテストが、気になっていたのかもしれません。とにかくとても寂しい思いをその時、僕は感じました。「見知らぬ人としゃべったらアカン」と教えられているんでしょうかね。 でもどうでしょう。遠くに臨める富士山、ステキじゃぁないですか。西に沈む大きな夕陽、夕焼け、キレイでしょう。数ヶ月前は、夜空に三日月と木星、土星が近くに並んでとてもキレイなときもありました。何歳になってもそんな景色を喜べるようでありたいと思います、そしてその美しさを横に居る人と共に喜べるようでありたいと思います。 2009.01.14 Wednesday
「大恐慌」!?
グローバルスタンダード(世界基準)とよく言われます。「世界基準から外れている日本はダメだ」と言われたりもします。でも本当にダメなのでしょうか。例えば最近の「100年に一度と言われる大恐慌」とやらは、まさにもてはやされた「世界基準」の「お粗末さ」の最たるものではないでしょうか。
つい数ヶ月前には、あらゆるものの「値上げラッシュ」もありました。この値上がりの根本は、世界が一体化しすぎて、巨大なお金が見境いなく原油や食糧を買い漁り、しかも自分が使うために買うのならまだしも、金もうけのためだけ値上がりを期待して買い占める。我が日本でも、ガソリンの値段が倍になったり半分になったり乱高下をしました。そのあおりで世界中の人間が困ろうが、貧乏人が飢えようがお構いなし。まさに「罰当たり」で「みっともない」在り方なのです。 「100年に一度と言われる大恐慌」も、そんな言葉が安易に使われ、やれ「1000人削減」といった話が新聞やテレビに踊り、なにか暗い感じのする年の始まりですが、しかしここでよく物事を見てみなければならないと思います。 今度の「大恐慌」なるものの発端は、要するにアメリカ式の馬鹿げた話なのです。その中身とは、「サブプライム」とかいう、信用の低い方々、厳しい下世話な言い方をすれば、いつ夜逃げするかもしれない人たちに「高利」で金を貸して家を買わせ、その「借金」を「高利回りの金融商品という衣」をまぶして売り買いしていたということなんですから、あきれてものが言えません。詐欺と言ってもいいくらいの、まさに昔話にある「キツネが騙した木の葉のお金」そのものなのです。そんな馬鹿げた話を基盤にした「好景気」で、ここ数年、潤っていたというのですから、むしろそれが異常なのであって、今回その化けの皮がはがれたのは、むしろ当たり前のことではないでしょうか。 さらに言うと、元々本質的に"お金"とはそういうものだということでもあります。よく考えてみればそうでしょう。一万円札は上等な紙に複雑な印刷がしてありますが、原価はせいぜい数十円です。そのものの価値とすれば、それこそお尻もふけません。多くの人が“それを一万円としよう”と思っているから、“一万円”であるにすぎないのです。大切にしても意味がないと言っているのではありません。そのような“仮”の物を中心として生きるのは、頼りないことではないかといっているのです。 それはまた、“自分自身の生きる中心に何を置くのか”という、仏教的な問いかけでもあります。仏教は『少欲知足』といって「欲望をコントロールしましょう」と教えます。それは“欲望”ははてしなくまたはかないものだからです。“仮”のものを本物と思っていることは顛倒(てんどう・ひっくり返っていること)ですよと教えて下さるのです。 確かに、リストラや内定取り消しに直面された方にとっては、とても大変なことだとは思いますが、そんな「バブル」に浮かれるのではなく、しっかりとした人生を選択する得難い機会を頂いていることでもあると私は思うのです。キツネに化かされる生き方ではなく、しっかりと自分自身に求められている役割りを、この社会の中で見つけていく生き方こそが大切なのではないでしょうか。 専門家によると、今回の不況は5年は続き、GDPが10%ほどもダウンすると言われていますが、それでも2003年のレベルらしいです。確かに膨らみ続ける資本主義の只中にいる私たちにとって、縮小することは大変なことかもしれませんが、個人のレベルで考えれば、5、6年前に戻ることはそう難しいことではないと思うのですがどうでしょうか。 先ず私たちの「何でも他と同じがいい」という発想から解放されたいものです。もちろん世界や、他の人のいいところは見習えばよいでしょうが、「みっともない」ことまで、「みんながやっている」からといってマネをするのは情けないことでしょう。 お釈迦様は弟子たちに「サイの角のようにただひとり歩め」と教えられました。「ワガママに生きろ」と言われているのではありません。「唯真理にのみ従って生きよ」と言われるのです。またさらに「そのときに、まま他の人たちと違ってしまうこともあるだろうが、でもおそれずに歩むのだ」と教えられるのです。これはいわば、童話の「みにくいアヒルの子」のことです。白鳥がアヒルのマネをする必要などないということです。 日本人は日本の本当の伝統に立って、「みっともない」「もったいない」「罰当たり」を自ら避ける『恥』の文化を大切にしたいものです。アメリカなんて若造に鼻づらを引っ張りまわされるのは「畜生」的な生き方なのです。 2009.01.07 Wednesday
半農半X
「食の安全」が危ない!中国産のいろんな食品汚染が大きな話題となりましたが、今や、米までが表示が信用できないという大変な事態となって、またぞろ「農水省」が批判されています。
しかし、「農水省」を悪者にしておけば全てが片付くということではなく、私たち自身の生き方にも大きな責任があるのではと思うのです。どこでどのように生産されたか分からないようなものを、ただ「安い」からといって買ってしまう。 少し話しが飛びますが、先日ある墓石屋さんの嘆きを聞いたことがあります。大阪の墓石は伝統的に「生駒石」が使われていたのですが、最近は、安いからといって、中国製が多くなっているというのです。彼は続けて言います。「でもおかしいですよね、あんなに重いものを、遠いところから運賃をかけて、石油を使って、CO2を排出して、運んできて、それでも安いんですよ。食品の履歴を提示することが始まっているように、墓石にもその履歴を書こうかと思っているんです」と。例えば、『中国の産地では労働者が低賃金で奴隷のように働き、輸出会社はその結果どれだけの利益を挙げて、たくさんの石油を使って、CO2を排出して、大阪まで運んできたものです』といったふうな履歴を付けて売り出してみようかと言われるのです。 墓石でさえそんな有り様なのですから、食品ならなおさらでしょう。私たちも、その履歴を考えて物を購入すべきではないでしょうか。 とこんなことを思っていると、以前、ある新聞で「半農半X」と唱える方の記事を思い出しました。その方は、京都府の綾部の方で、「半農半X」とは、農業を半分、漁業を半分で生活する人を「半農半漁」と呼ぶことのもじりで、「自分の食べるものは自分で育て、他は、自分の好きなこと、例えば、趣味とかボランティアとか研究とかいったことをすること」だそうです。 都会人にはなかなか難しいことですが、「半農半X」、ステキですねえ。私の先輩で田舎のお寺の住職さんが、「ウチは半農半寺や」と以前言っておられたことを思い出しました。「現金は無いけどな、食べてはいける」と笑っておられました。いいなぁと思います。今話題の「サブプライム」でガタガタしてるニューヨークのウォール街、お金を動かすだけで何十億円と稼ぐ人とは、真反対の生き方です。 「食が危ない」と一般によく言われますが、このように見てくると、自分たちの方にも大きな問題があることが見えてきます。安いものばかり、どこのものかも確かめずに買ってしまう。やはりしっかりしたものをそれなりの値段で「少し」買う、これが大事でしょう。家庭菜園もいいですね。大阪府の食糧自給率は2%しかありませんから、200%ほどもある北海道や東北の人にしかられてしまいます。何とかしよう!ベランダで育てたキウイでもいいじゃあないですか。 JUGEMテーマ:農業・アグリビジネス 食 2008.12.25 Thursday
エコブーム。本当かしら?
あの有名な養老孟司さんが、ある新聞で「今のエコブームは、単なる流行に乗っているだけで、かえって危うい。本来政府がやるべき仕事をさぼって、一人ひとりに道徳を押し付けているのだ」といった趣旨の意見を述べられていました。『さすがにおもしろい見方をされるなあなぁ』と私は思います。
彼は「日本で一番多く死体を切り刻んできた」と言われるだけあって、一般の常識を突き抜けておられるところが大きくあり、まさに「生死(しょうじ)を越える仏教」に通じる考えをお持ちの方です。しかし、この「エコブーム」への警鐘に対しては、私は半分は賛成ですが、半分は反対です。確かに政府がエコをキャンペーンするのは、何か裏があるのではと怪しく感じますが、だからといって個人の取り組みが意味がないとするのも言いすぎだと思うからです。 そこで佛の教えである『少欲知足』が大切になってきます。この言葉は一般には、「欲を少なくして足るを知る」と読まれますが、より深く読むと、「十分に知ることによって、欲が少なくなる」という意味でもあります。この教えを実践すべきだと思います。 例えば、私は「マイ箸」を持ち歩いています。これを、「国産材の間伐材を利用する割り箸は大切だ」と言って「マイ箸」全てを否定するかの如き意見があるのですが、とんでもないと思います。確かに国産材の間伐材を利用する割り箸は、森林保護のためにも大切なものですが、日本の割り箸の全てがそうであればいいのですが、残念ながら、その90%以上は、安価な中国を始めとする外国からの輸入で、森林を破壊した割り箸なのです。だから「安物の割り箸は使わない、でも国産の高級なものは使う」といった、キメ細かな知恵、行動が必要なのです。 同じように、省エネだからといってハイブリッド車に、まだ使える車から買い換えるのは、ハリウッドスターの流行に乗るようなもので、知恵の足りないこと、かえって「もったいない」のです。また省エネと言われているハイブリッド車も、電池の寿命は10年くらいと言われていて、10年後には壮大な廃棄物になる可能性も高いのです。よくよく長い眼で見なければ物事は見えません。 私はこれは自慢ですが、15年も同じ車に乗っています。ハイブリッドよりよほど「エコ」であると思います。 JUGEMテーマ:エコログ |
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